草木も眠る夜、雨が上がった。
静寂が周囲を支配している。その夜寝付けなかった青年には、雨音が途切れてしまった事は嬉しくないことだった。なぜなら彼の腕の中で眠る主の存在を、否応なしに意識してしまうからだ。
「は………」
できるだけ吐息を当てぬように、彼は溜息をついた。
石の天井と壁は千年前に作られたという。二人でひっそりと生活するのに、必要以上に丈夫だが、壁のない間取りと木板を立てただけの窓では、自分達の生活音を閉じ込めておくには難がある。が、彼らは特に困りはしなかった。
なぜなら住まいの周りに他の人家など無く、加えて言うならば、其処は厳かに聳える大樹に囲まれた禁足地の中。清らかな泉の畔に残る、かつて神殿と言われた、たった一人のために造られた場所なのだから。
「ん…ぅ………」
彼の腕の中で、主がわずかに声を漏らすも、深く眠りについて目を覚まさない。
「少し寒いか……」
とうに世間から忘れ去られた、その神殿の主には一人だけ、従僕にして守護者がいた。重ねた掛け布団を引き寄せ直す、黒い髪に浅黒い肌の青年。彼は作法も教養もないまま、ただ己の心のまま、己の主に献身している。
昼は森の中で弓と斧を手に狩りを行い、木を切り、主の身の回りの世話を進んで行う。
月が昇れば、青年が街から持ち込んだシーツを敷き、暑ければコットンかリネンを、寒ければ毛皮を寝具として、毎夜、寝処を調える。そして眠る時には、主が青年を抱き枕にするか、あるいは青年の腕に主が収まり眠りについた。
今、主の薄い身体は青年の腕の中にある。
眠れない赤い瞳が見つめる視線の先では、男性にしては華奢な後姿が規則的に肩を上下させ、青年が耳をすませば、微かに寝息を立てていた。
外では、雨雲が晴れたのだろうか。窓に立てた木板の隙間から、青白い月明かりが差し込み、腕の中の横顔に光の線となって掛かる。長く銀色に光る睫毛と、褐色の頬が陰の中から静かに浮かび上がって見えた。
「――何の夢…見てんだ……アンタ」
青年は独り言ち、主の銀髪の流れから覗く、糖蜜色の耳朶裏に鼻先をよせて、静かに息を吸う。呼吸する薄い胸に掌を添えて、己の靭やかな筋繊維を纏う腕に、主の頭を乗せながら。
同時に、自身の獣慾と理性のせめぎ合いに、一人静かに嫌悪していた。
「ぅ……く……」
青年の眼の前で主の体が小さく跳ねた。その様子に、腕の中の背中が、不自然な熱を帯びている事に気がつく。
「ッ――クソ……」
上体を起こし、主を横向きに寝かせたまま、布団を剥がす。寝間着の前を留める紐を解き、肌をさらけ出させ身体を改めれば、露わになった褐色の背中には、樹木のような刻印が広がり、自ら金の光を放っていた。
「く……ぅ…う…」
青年は眉根を寄せ乍、眠ったまま、苦痛に喘ぐ主を見下ろして指先に意識を集中する。
「……怒りよ」
呼吸とともに取り込んだ魔力を身体に巡らせれば、清めの炎が虚空に現れる。まるで蝋燭の火程に小さなそれは油が無くともちろちろと揺れる『魔法』の炎。
現れた灯りに照らされる主の身体は、しっとりと汗ばんでおり、呼吸も浅く早くなっている。部屋の中に、彼の吐息が反響し、まるで組み敷いて犯している時に聞く呼吸のように、青年には思えた。痩躯に異変が無いかじっと目を凝らしていると、うぞり、と主の鎖骨の間で皮膚が不自然に膨れた。
「来たか」
青年が主の身体に発見した、小さな吹き出物のような膨らみの中で、明確に肉の中から、異質な黒い尖った枝先のようなものが蜷局を巻いて溜まっていく。やがて、プツ……と最後の薄い皮が破られ、暗色の靄と共に其れは発芽した。
「か……はっ…ぁッ」
其処からはまるで早回しの映像のように、黒い芽は頭を振りながら枝分かれし、横に広がり成長する、と同時に、主の喉に黒い模様、即ち根が罅割れのように、薄い皮膚の下で四方八方に伸び、細かな凹凸を浮び上がらせて締めつけてゆく。
その光景に青年は額がカッと熱くなるのを感じながら、内から溢れる言葉を呟し指先を向けた。
「燃えろ。消えろ、そいつの中から」
そいつは俺の――。その言葉を青年は喉の奥へと出かかったところで飲み込んで。
主を苦しめる障りへの怒りと共に青年の指先に灯った魔法の炎が、風に煽られたかのように大きく揺れて、主の身体から生えた禍々しい影の木と、暗い靄を焼き払う。――主の首ごと。
「ぁが……は…」
黒い障りが炎にかき消される中、肉と髪の焼ける臭いも室内に充ちて、窓から外へと溢れていく。
「ごめん」
青年は、炎が影を焼く僅かな時間を、何倍にも長く感じながら唇を噛んだ。
火に舐められ焼けた主の皮膚の下から、真っ赤な肉が現れて、じくじくと体液と血を滲ませる。
「げほっ、がふっ ひゅ……」
喉を鳴らし苦しむ彼の焼け爛れた身体は、火が消え去ると共にたちどころに再生し、やがて傷ひとつない元の糖蜜色の肌と、背中の黄金の刻印を見せた。
……ひゅぅ……ひゅぅ……と、喉を腫らしたような主の呼吸音が室内に響く。
刻印の光は収まった。青年は主の寝巻きを着せ直しながら、その目元に顔を寄せ、目尻へと舌を這わせる。
涙の塩気と苦味を味わい、もう一度、火照りの残った主の身体を抱き寄せ、再び腕枕を差し出した。
耳を澄ませ、徐々に主の寝息が穏やかなものとなっていくのを聞いていると、漸く青年にも眠気が訪れる。
「……レ…ギ…オン…」
小さな小さな、川のせせらぎにすら紛れてしまいそうな声がした。
「――おう……ここに居る」
只の寝言だと解っていても、主に名を呼ばれ、青年は抱き締める腕に力が籠もった。
寝間着の布地越しに再び肋をなぞり、平らな下腹を撫でる。燃えた髪すら元通りに揃った、項の生え際へ鼻先を埋め、再生したばかりの首筋の窪みにそっと口付けの鬱血痕を刻んだ。
そんな事を、百年以上繰り返している。
二人は、人の理(ことわり)から外れた存在である。
我々が進むこの先には、『瘴気の森』と呼ばれる土地がある。正確には、ただ木が生えた森そのものではなく、森とその周辺の土地を含めて森と呼んでいる。
ここ数年は、瘴気に汚染された範囲が狭まる、謂わば縮小期にあり、それが我々、『ティオスヒュイ共和国国教会』による、地道な国土守備活動の成果だということは明白である。――と、隊を率いる壮年の男の、酒焼けした声が広場に響いた。
「……ねぇ、演説……森に行く度に毎回やってるのかい?」
ある町の広場に、四十人ほどの男たちがキッチリと姿勢を正し、列は程々に揃えて並んでいた。皆、赤いヘルメットに臙脂色の革の鎧、長さは違うものの、帯刀し、揃いの背嚢を抱えている男達である。
「そうだ。良いものじゃないって言っただろうが…」
隊長の説教から隠れるように、隣り合った革鎧の青年二人が声を潜めて喋る。その様子から、二人が初対面ではない気心知れた仲である事が見て取れた。
「でもさ、森に入らないと、僕が求めているものには出会えな……」
「そこ! 私語を慎め‼」
「ハイッ‼ 失礼しました隊長‼」
此れから、神の息子の国の西部へ向けて進む彼らは、神の息子の国国教騎士団という。
その名の通り教会の説く教えの元『瘴気の森』がこれ以上国土に広がらぬように、あるいは瘴気を広げている魔王の討伐こそを、最上の使命として活動する者達である。
「今回、我々は此の儘、連峰眠り竜を北より迂回し、最西端の詰所に到着次第、二班に分かれて行動する。一班は防壁結界の確認と修繕に、二班は森の北端区域の調査に向かう。事前に渡した班分けは、全員確認したな?」
教会に属し、教えに仕える騎士である彼らには、度々、森の調査に、防壁の維持に、土地の奪還に向かう任が与えられた。任務には人手も時間もかかる上、物資の運搬も必要不可欠である。故に彼らは代わる代わるチームとなって、態々危険な西の果てへ赴く。
さて、今後の行程を確認する隊長に隠れて、先ほど叱られたばかりの二人の青年の一人が、懲りずに再びもう一人へと耳打ちを初めた。
「……僕一班。……メロス、キミは?」
「そうか、俺は二班だが」
「あっ、森の調査だね? ねーえー、僕の事そっちに混ぜてくれないかなぁ。町に戻ったら、一杯、いや、三杯麦酒奢るから」
「――また、随分先の約束だな、イオ…俺達が町に戻るのは春だろうが。危険なのは分かっているんだろうな? 森には魔物、下手したら魔族が出るかもしれないんだぞ。お前のことだ、魔物相手でも、自分の身を守るぐらいは問題無いんだろうが」
「心配ありがと。まぁ…そこはね、メロスの剣の腕に期待してるんだ♡ 今じゃ剣のメロス師匠だろう? 君」
イオと呼ばれた、栗色の髪に青葉色の瞳を持ち、雀斑と眼鏡をかけた青年がへらりと緩く微笑む。相手をしていた、金髪に赤い瞳を持つ青年メロスは、前を向いたまま溜息を付いた。
「剣の、って、ハァ……子供相手の稽古の話だぞ、イオ。お前、さては引く気無いだろ。全く…調査班に紛れ込むなら勝手にしろ。どうなっても、俺は知らないぞ」
「やったね〜…っと、隊長の話終わりそうだ」
騎士団の列の前方で、イオが言う通り隊長が声を張り上げた。
「では、今より此処を出発する。全体! 整列‼」
「ハイ‼」
ガチャガチャと軍靴を鳴らし、男たちが姿勢を整え一同に歩き出す。街を出て詰所にいたる街道へ、隊列は進んでいった。
「瘴気の森は例年、調査に入ったまま帰ってこれなくなる騎士も少なくない。ましてや騎士じゃないお前がどうして」
金髪をヘルメットの中におさめたオルメロス=アンディーノが隣のイオへ尋ねた。イオを『騎士じゃない』と言ったメロス自身は、教会に所属している正騎士であり、此れ迄も西の詰所へ任務で赴いた経験を持つ。
イオと呼ばれた、長い栗色の髪を襟足で一束結びにし、襟の中に押し込めた青年は、本名をイオギオス=ガラニスといった。西へ向かう行軍への参加自体、初めてであり、二人は同じ小さな町の出身の所謂、幼馴染であった。
「ええ? ひどいなメロス、前に説明したじゃないか。僕が知りたいものはあの森の中にこそ在る」
オルメロスの言葉通り、イオギオスは騎士団に籍を置いてはいるが騎士の身分ではなかった。
「遺跡に残っている古代文字だ」
教会が運営する学術機関で学ぶ研究者、それがイオの身分である。
パトロンが得られなかった研究者の例に漏れず、教会への奉仕と引き換えに援助を受けながら、学問を究める事を志して数年、彼の興味は今、自国の歴史に埋もれた、古代の面影に専ら向けられていた。
「……俺達が持ち帰る遺跡の品とか、書き写しだとかが有るだろ。お前が危険を犯す必要は無いと思うが」
「えぇ? ねえ、例えば君は、名高い名剣が振れると聞いた時、振った素人の感想だけで満足するのかい? メロス」
オルメロスが背嚢を背負い直す。
「それは……分からなくもないな」
「だろう?」
我が意を得たりとばかりに、イオは緩い笑みを浮かべた。
一行は騎士団の揃いの鎧を身に着けている。それ故、常に規律と節度ある行動を行うよう指導されていた。しかし、多少のお喋りは場の空気を張り詰めさせない、疲れさせない意味でも、自然と隊列のそこ此処で生まれては、騒がしさが過ぎる度に隊長の喝が飛んだ。
「今回は商隊の警護も無いからか、全体的に少し気が抜けているな。遅れるなよ、イオ」
此度の道中、騎士が気を張らなければならない様な危険な場所は少なく、街道沿いに進むとなれば尚更だった。
「そうかい? 初遠征の身としては、此れぐらいの難易度が有難いなぁ」
「お前な……。所でさっきの話だが」
「うん?」
「担当任務の話だ」
「何? 僕と代わってくれるのかい、メロス」
「いや違う、最後まで話を聞け」
メロスはイオの脇腹を肘で小突き、会話を続ける。
「調査班の騎士は、出発前に瘴気対策の祈りを司祭から頂いている。お前は受けていないだろ。危険じゃないか」
――『瘴気』とは魔王が放っている、と世間に伝わる、西の土地を汚染する特殊な魔力。淀んだ水や土地を汚し、触れるものの精神、肉体を狂わせ、浴び続ければ死に至る、毒のような物である。しかしイオは顎を上げ、ニヤリと笑いながら歩き続ける。
「抜かり無いよ。僕の魔力操作なら、光魔法の防壁で自分の身ぐらい、一週間は瘴気から守れるさ」
瘴気には幾つかの特性があった。光の魔法により身を守れること、炎の魔法により浄化できること、水の魔法と土の魔法には融け込んでしまう等だ。
「まぁ、常に魔力を使い続けるから、魔法薬中毒になりそうだけどねぇ……まあ、出来ないことはないと思うんだよ」
自信が有るんだか無いんだか……とメロスが呆れ顔を浮かべ、やや早足で歩こうとした。
「おっ。イオ、メロスお前ら、サボりの相談か」
其処へ後ろから一人の騎士が、イオとメロスの間に首を突っ込んできた。
「ああいや……聞いてくれ。イオが、二班と一緒に森に入るって言い出してな」
やや呆れた調子のメロスの言葉に、彼はイオを覗き込み目を瞬かせた。
「なんだよイオ、防壁の整備のほうが楽だし、お前も得意なんじゃないか? まあ、そんなに行きたいならさ、俺、二班だから代わってくれよ。内勤してえ」
「ホント〜? 喜んでぇ♡」
後ろから首を突っ込んできた同期とイオが、軽く拳を小突き合わせた。隣で半目になるオルメロスの前で、容易く密約が結ばれた瞬間であった。
詰所から瘴気の森を見たことがあるメロスにとって、幼馴染が研究の為という目的が有ったとしても、森へ入る選択には不安を感じずに居られない。つい口を挟んでしまうのだった。
「本当にが有っても、俺は知らないからな」
「いいんじゃないか? 新人が一人ずつ入れ替わったところで、頭数が減るわけじゃないならさ。知らんけど」
斯くして、月が深い藍色の空に浮かぶ頃、イオギオス達国教騎士団一行は、安全地帯の最西端、瘴気の森を目前にして設けられた詰所へ、無事に到着したのであった。
「イオ、大丈夫か」
階級の低い騎士達が雑魚寝する部屋の片隅で、メロスが就寝用の薄着に着替えながら、同じく部屋で、休み支度を整えるイオに声を掛けた。
メロスの金髪も、暗い部屋の中では薄い水色に染まった様。
声を掛けられたイオの方は、慣れない長距離の徒歩移動にすっかり足の裏や足首を赤くひりつかせてしまって、背嚢から取り出した膏薬を塗り、包帯を巻いている途中だった。
「あははー…大丈夫だよ。これ逃したら、僕みたいな奴はいつ安全に森に入る機会が来るか、わからないからね。明日は万全に…」
イオが自らの足の手当を終え、眼鏡を外しながら、固い蔓枕を並べて心配性な幼馴染に向かい合う。
寝るときですら、襟巻きを外さないイオの首に在るものを知るメロスは小さく嘆息した。
「お前、家のことがあった時も大丈夫って言ったよな。療養院で」
既に部屋に灯は無く、明かり取りの窓から外の月の光が差し込み、男たちに降り注ぐのみ。
「……そうだったっけ」
「歩けなくなっても、置いていくからな」
「わかってるよメロス」
「……おやすみ、イオ」
眠りに落ちるメロスの瞼の裏には、ある出来事から見舞いに来る家族も居なくなった、まだ十代半ばのイオが、やはり同じように『大丈夫だよ』と笑みを返す姿が浮かんで、溶けた。
瘴気の森は、魔物や魔族を産む。
淀んだ水や、土と融け合いやすい瘴気の性質は、動物の亡骸に、より濃く溜め込まれ易い。
「いいか新人、よく聞け。濃度の低い区域でも、魔物が出る可能性は否定できない」
薄暗い木漏れ日が差し込む朝の森の中を、獣道に伸びる藪を刈り取りながら、先頭を進む班長が後列へ言ってきかせる。隊列の二番目には地図と瘴度計、方位計を手に進む副班長。武術と炎魔法に秀でたオルメロスはその実力から殿を、まんまと同期と入れ替わったイオギオスがその前を歩いていた。
瘴気の森は街道や普通の森とは異なり、常に黒い霧がかかったように視界が悪い。特に地面近くに溜まりやすく、時折炎魔法で払いながら、足元にも注意して歩かなければならなかった。
「過去に、北区域の瘴気溜りでも、調査班が魔族と遭遇したという報告もある。もし今回そうなった時は、即、詰所に戻るからな」
動物の亡骸や、年月を経た魂のない樹木が、瘴気に冒され穢れ変じたものを『魔物』と呼ぶ。物理的に処理することも可能だが、とどめは炎の魔法で浄化する必要がある。知性は低いものが多く、野に出る獣等より一段上の脅威ではあるが、訓練したものなら概ね対処できるとされた。
しかし『魔族』となると話は変わる。彼らは、魔物とは次元の異なる脅威の存在であった。
「魔族は人型で……言葉を話す。僕達には解らない言葉を」
イオギオスが小さく呟いた。
魔族の正体は解っていない。人間のように二足歩行し、手を持ち頭もある。しかし常に黒い靄に全身が包まれており、顔は見えない。
人間には理解できない言語を話し、帯刀していることもあれば魔法と思われるものを使うこともある。
「もしかしたら…魔族は……」
古代文字と関係があるのではないか。それがイオの仮説だった。
「――イオ、遅れてるぞ」
「あは、ごめん頑張る」
そして、彼らに物理的な対処は効果が低く、かといって炎で焼き尽くすと屍も残らないため、その生態の調査は魔物に比べて著しく遅れていた。否、何も分かっていないに等しいのだった。
一行は、時折全体で休憩を挟みながら、徐々に瘴気の森の深くへと進む。
朝早く詰所を発ち、三度目の足休めを終えて進行し暫く経ち、再び二人に疲労が溜まり足取りが重くなってくるが、望んだ四度目の休憩は、何故か取られる気配が、無い。
「……――――」
メロスは、前を歩くイオが徐々に隊列から遅れ始めていることに気がついた。
「……おい、イオ」
「…………」
ザッザッザッと規則的な足音を立てて一心に進む前方。いつしか皆、無言になっている。
「イオ」
その空気に呑まれ始めているイオの肩を叩くと、彼は表情に疲れを滲ませながらハッと我に返った。
「っ……わるい、ちょっと薬だけ飲ませて」
イオが歩きながら背嚢から小瓶を取り出し、栓を開け、中のとろみのついた緑色の液体を飲んだ。その分どうしても立ち止まらざるを得ず、置いていかれるはずが、メロスはイオの隣で歩みを止めた。
「……はは、弱ったな。ごめん、足引っ張って」
「は……こんなの引っ張られた内に入らない。とっとと追いつくぞ」
「それなんだけどさ、オルメロス」
はぁ…と肩で息をしながら再び息を吐き、イオは自らの光魔法による防御を一瞬解除し、即座に周囲に浄化の炎を放ち瘴気を散らした。視界が一段明るくなり、周囲がクリアになる。班員たちはあっという間に二人を置いて先に進み、顧みる事はしなかったらしい。
周囲に魔物が居ないことを確認して、イオは樹に上りはじめた。突然の行動に呆気に取られながらも、メロスはイオの傍へ近づいていった。
「……イオ、やっぱり、瘴気に当てられてるんじゃないか。お前が全属性を続けざまに撃てる器用な魔法使いだっていうのは知ってるが流石に…ほら、俺を足場にしろ」
友人の奇行に眉を顰めながらも、メロスは自らの肩をイオの踏み台に差し出す。
「助かるぅ。っと……どうかなぁ、当てられてる、ね…そうだったら良いんだけどさあ」
イオは普段と変わらない口ぶりのまま、背嚢から双眼鏡と方位計を取り出し、周囲を見回した。何かを確認すると、樹上から飛び降り着地と共に悲鳴を上げた。
「いってぇ…! ッツゥ……――ああメロス、悪い話だなぁ」
「慣れないことをし過ぎなんだよ、お前は。眼鏡もやし」
「方角がおかしい」
ふっと真面目な顔をして告げたイオギオスの目に、嘘やからかう意志は見当たらないと、幼馴染のオルメロスは信用した。
「……詳しく聞かせろ、イオ」
腕組みをし、メロスはイオの説明を待った。
「進行方向が、予定より南にずれている。どれぐらいかは、計算してみないと分からない、けど…大分」
「副隊長の取った進路が、間違っていた、ということ…か」
顎に手を当て思案するイオと、先に進んでしまった本隊の方を見つめるメロスの間に沈黙が居りた。
「それに休憩一回とばしたしさ。キッツ……どうしてかなぁ」
「予定より進行が遅れていたのか?」
「なら情報共有してもらえない僕たちがよっぽど信用されてないのか」
イオはフフッと笑って肩を竦め、眼鏡を掛け直した。
「イオ、追いかける気、ないな?」
「正直ねぇ……どうしようか、考えているところだよ。北の遺跡、行けないのについて行ってもなあ」
「別の新しい遺跡を見つけようとしているのだろうか?」
少しでも都合の良い解釈を、とメロスが首を捻って絞り出すがイオは緩く首を横に振った。襟巻きから彼の髪が零れ出る。
「いやあ……教会的にあまりいい顔しないよね、それ」
「それは、そうだな……」
森の北端区域では、遺跡のようなものが発見されている。イオギオスの目的は其処にあるのだが、教会は遺跡の発掘や調査に積極的ではない。森の調査とは、主に地図の作成や魔物の数、瘴気の濃い溜り場を調べるのが本来の目的なのだ。
「遺跡の前に森自体をなんとかしないと保護も調査も進められない、って指針だしねぇ……僕ら、さぁ…」
イオが方位計や双眼鏡を背嚢に仕舞い、背負い直したその時――。
「イオ! 前に飛び込め!」
オルメロスが叫び、イオギオスはすぐさま彼の居る方へ土を蹴り飛びこんだ。
剣を抜いたメロスがイオの立っていた其処目掛け、長剣を突き出す。
其処には熊が蔦を被ったような獣が居た。二人よりも一回り背が高く、大きな影。しかもその獣は、オルメロスの剣を最低限首を横に振っただけで躱し、右手に大きな石を握り締めていた。
「魔物…! アルクーダか」
瞬時に二人は別方向に距離を取り、イオギオスは木を背にして身を半分隠す。
「メロス! 炎を‼」
「ッ! やってる」
初めて実際に森の中で、大きな部類の魔物に鉢合わせた所為か、オルメロスは焦りから魔力が乱れ、得意の炎を放てなくなっていた。其の様子を見てイオギオスが木の陰から躍り出て膝を折り、両手を地面につける。
「く……僕が土であいつの足場を崩す! あとは切るなり焼くなり、任せたよ!」
瘴気を一度払ったとはいえ、時間と共に、段々と靄は戻ってくる。祈りによる光の加護を受けて居ないイオギオスは、他の魔法を使う度に、自身で施した対瘴気光魔法の防御を解く必要が有る。
「すまんイオ!」
そのリスクを理解した上で、イオギオスは魔力を地面へと通し、魔物の足場となっている地面を陥没させ、転倒させる筈だった、が。その熊のような魔物は、崩れ落ち穴の開いていく足元から、まるで此方の動きを読んでいたかの様に、前方むかって大きく飛び上がり、その上で右手に握っていた石をイオギオス目掛けて投げつけた。
「な――⁉」
「はがっ!」
ガッ! とイオギオスのヘルメットの上から、重たい石が当たり、その威力に彼は転倒してしまう。オルメロスは、しかし倒れた友人に駆け寄るのではなく、剣に炎を纏わせて踏み込み、袈裟懸けに斬り掛かった。
「ハアッ!」
振り下ろした剣に、手応えを感じた。蔓を断ち切り、もっと弾力のある肉を裂いた感触。そして血の臭い。
イオギオスを傷つけた魔物への怒りを引き金に、さらに大きく渦巻く炎を巻き上げ、メロスが魔物を焼き尽くそうとした其の時だった。
「ヒィッ! ヒイイイッ いやだぁ 怖い! たすけ… ヒヒッ ヒヘッ ヒギャアアアッ」
「今のは」
その時、全員が同じ方向を向いていた。そして真っ先に走り出したのは、他でもない、熊と蔦の魔物であった。
「――ックソ!」
そう確かに吐き捨て、魔物のような誰かは、被っていた皮を脱ぎ捨て人の姿を現し、オルメロスとイオギオスの間を二本足で走り抜けた。左肩に深手を負いながら。
「に……人間⁉」
「イオ! 俺たちも追うぞ‼ さっきの声」
「うん、副班長の――」
そうして、声の発生源と思しき方角へ、迷わず走っていった被り物の男を追いかけた先で、二人は見た。
森の中、大樹と石造りの遺跡によってフレームが作られ、四角く切り取られた舞台。其の上で、残酷劇が終幕へと差し掛かっていた。
或る者は、自ら手で目を刳り、舌を噛み
或る者は、自ら生きた儘、腸を引きずり出し
或る者は、自ら何度も短剣で耳から頭を突き刺し
鎧と背嚢がバラバラに捨てられ、皆一様に下半身の着衣を脱ぎ捨てて、明らかに誰かと性交したと思しき様子を隠しもせずに死のうとして、最早手遅れだった。
「なッ――……」
七人の瀕死体の男達が、誰の物か判らない血に塗れ、冒涜的な壊れ方をしていた。
イオギオスは、班員たちが互いに犯しあったのかと自分の目を疑った。教会の教えでは、同性同士での性行為は禁忌とされている。其れなのに、有ろう事か先に死んだ班員の傷口に、性器を捩じ込む者。彼は自分の指が折れても尚、喉を掻き毟り引き裂いて、止める間もなく二人の目の前で死んでいった。
「へへ…へへへへ ヒヒッ」
仲間の異常な死体と、引き千切られた着衣が点々と連なり、奥へと進んだ先から、獣が喚くような声と男の下卑た笑い声、濡れた肌がぶつかり合う音が響いてきた。
「班長⁉」
視線の先に居たのは、他の班員と同じ様に、鎧も背嚢もヘルメットも脱ぎ捨て、何かを犯す男だった。
「あがっ ぅ ぅあ゙ ぁ゙ ひ――」
犯されている何かが苦し気な呻き声を上げている。
一瞬、班長は獣と目合っているのかとイオギオスは思った。犯されている影の背中から、見慣れた剣が数本生えている、いや、刺されているのが見えたからだ。
そして次の瞬間には、強く後悔した。犯されているのが獣だったらまだ救いが有ったと。
大地に散らばった、長い銀色の髪。
藻掻き、土に爪を立てる細い指。
引き裂かれた布きれを纏わり付かせた、薄い肩。
男の指が食い込むほどに掴まれた細腰。
犬のように高く掲げ、肛門を犯されている、小さく丸みを帯びた尻。
べっとりと張り付いた血の下から、朽葉色の肌を透かせたそれは、人間に間違いなかった。
「ァアアアアアアアアア――‼」
「⁉」
男の咆哮に気を取られた次の瞬間には、イオギオスとオルメロスを襲撃した男は奥へと飛び込み、正気ではない班長を素手で殴り倒した。
「ヘブッ!」
「このっ!」
其れだけに留まらず、犯されていた人物に突き立てられていた班員の剣を引き抜くと、二人に背を向けたまま、班長へ一度、二度、三度と繰り返し剣を突き刺した。
「アッ がッ ぎゃひっ」
「アイツのノロイにッ……殺される前に、俺が、殺す」
「ア……がっ………」
――そして、班長だった男が声を上げることは永遠になくなった。
残酷劇の登場人物が、皆沈黙した。
しかし、この舞台には下りる<ruby緞帳どんちょうが無い。
血と臓物の匂いに周囲を充たされて、二人は硬直した。イオギオスの頭の中では、この異常な状況が、自分たちが班から離れここへ到着するまでの、二時間も無い間に起きた事が信じ難かった。昨夜まで何の変哲も無かった仲間が、瘴気の森の中とはいえ完全に発狂したとしか思えない。
二人の視線の先では、男がゆっくりと立ち上がり、犯されていた人影から残りの剣を抜き取り、足元に投げ捨てた。
木々のひらけた泉の傍。空からは陽の光が差し込み、男の姿を照らし出す。黒い髪に、日焼けした浅黒い肌に傷跡の多い、二十代程の人間である。
「うぅ ひ…ぐ ……ッがはっ…レギ…オ…」
沈黙を破る微かな声。生存者の兆候にも関わらず、イオギオスもオルメロスも、硬直した儘、動けなかった。
返り血にまみれた黒髪の男は、ゆっくりと気遣う手付きで犯されていた人影を抱き起こした。銀色の長い髪に、朽葉色の肌をした人物が、惨たらしく血の泡を吐きながら、手を震わせて持ち上げようとしていた。
「悪い……また守れなかった」
異邦の容姿の被害者は、背中から胸まで貫通した傷を負っていて、どう見ても命は助からない。そして傷を負った胸の薄さと、投げ出された足の付根に見えた、股ぐらの造りに、被害者が青年だと、イオギオスは漸く気が付いた。
「……――」
男が異邦の青年の頬を撫でて、体躯を胸に抱き締める。何処かのサロンに飾られた、宗教的な絵画の様な光景を目の当たりにして、イオギオスが漸く動いた。
その場に装備を捨て、ヘルメットすら脱ぎ捨てて両手を上げ、三歩歩いた。其の瞬間、黒髪の男が露骨に殺気を放ち、二人へ顔を向ける。
「囮かよ……馬鹿の一つ覚えで突っ込む以外にも出来たんだなテメーら」
露わにされた敵意に、オルメロスが素早く剣を抜き、踏み込みかけた。
「メロス駄目だ、剣を離せ」
「イオ!」
「駄目だ‼」
オルメロスが剣を構えているのを庇う様に、イオギオスは更に前に出る。オルメロスは暫く躊躇った後、柄から手を放した。
「クソ狂信者共……ぜってえ殺す」
イオギオスは両手をあげたまま立ち止まる。普段の締まりの無い顔から一転して、真面目な顔をして。
「初めまして――僕は、イオギオス。……敵意はない、絶対に、君たちに危害を加えない」
黒髪の男は、銀髪の青年を抱きしめた儘、イオギオス達を咬み殺さんとばかりに睨み続けている。唸り声が聞こえてきそうな形相であった。
イオギオスはなおも両手を上げ、気持ちを鎮めようと深呼吸を一度行った。オルメロスは丸腰ではあるが、腰を低く落とし、どうとでも動けるように構えていた。
やがて血肉の死臭に誘われてきたのか、空に猛禽の影がゆっくりと旋回して集まり始める。
押し黙ると、木々の揺れる音や、泉が静かに川へと水を溢れさせる音が聞こえる静けさだった。
「後ろの奴は、オルメロス。――彼にも、君たちに危害は加えさせないよ」
「ッ⁉ 何を言ってるんだイオ!」
オルメロスも流石に任せておけないと腰をあげる。しかしイオギオスは振り返り首を横に振った。
「僕たちは、ティオスヒュイ共和国国教騎士団の騎士です。……此処に居るのは、確かに僕らの仲間だ。僕たち二人は、彼らと森の中で逸れたんです。どうして、何が有ったのか、全く分かりません、ごめんなさい。ただ……――『送』らせてくれませんか。君が、今腕に抱えている……其の人も含めて」
イオギオスの言葉に、オルメロスも黒髪の男も、顔を顰めた。
そして、長い沈黙の後に黒髪の男が口を開いた。
「こいつは俺の主だ」
アルジといわれた銀髪の青年が目を開く。今まで他の者に見た事が無い、紫色の瞳に日光が差し込んで煌めいた。いつの間にか彼の傷からの出血は止まっている。では死んだのかと言うと、そうではなかった。黒髪の男は言葉を続ける。
「こいつを送る必要はねぇ。……死なないからな」
紫の眦の下に、疲れ切った隈を浮かべ、徐々に呼吸も落ち着いていく、アルジと呼ばれた彼が首を持ち上げた。黒髪の男が、傷付いた腕で銀糸の流れる頭を胸に抱き寄せる。
「いいか。テメー等騎士団のお仲間は、俺の主を犯して、勝手に『ノロワレ』て死んだんだ。これが初めてじゃねえ。イカれてる、お前ら――」
「……――そこの」
黒髪の男の言葉を遮ったオルメロスが見ているのは、彼が庇うように抱きしめている銀髪の青年だった。
「――どうして俺の夢に出てくる女神が、貴様のアルジなんだ」
「――――はぁ?」
イオギオスは幼馴染の突然の脈絡のない発言に喇叭のような声を上げた。